*少しづつ作成中です

令和6年能登半島地震


1月

「その時」の前

毎年我が家にはお正月に行うルーティンがあります。

まず妻の実家に新年のあいさつに行き、お節料理も食べ、みんなで写真をとる。

そして僕の実家にもあいさつに行き、ここでもお正月の家族写真を。

 

同じ場所で行うこのルーティンが、今年で最後になると知る余地もなく。みんな笑顔。

この後、重蔵神社に初詣に行きました。おみくじを引き、その内容に家族で談笑。    春に中学校入学の長男、愛士は大吉で喜んでいました。

 

この約1時間後に地震が起きました。私のおみくじに書かれている言葉を地震後に読み返してみると、地震が起きること、そしてその後、どう生きていくと良いのかメッセージが込められているように感じました。

 

「その時」が来るまでは、穏やかでいつもと変わらないお正月が、輪島がありました。

「その時」

「その時」、私は自宅の2階にいました。Facebookに、新年の挨拶、この初詣のことを書き「投稿する」ボタンを押そうとした、その瞬間でした。

揺れは大きかったですが、この時は半年前のGWの「震度5」くらいかなと、恐れはあるもまだ心に余裕がありました。

 

1階でコタツに入ってTVを観ていた妻、長男、2才の次男(娘2人は実家に遊びに)が大丈夫だったか確認に降りました。「大丈夫?結構揺れたね」と会話を交わした後、すぐに妻は市職員のため「私保育所に行ってくる」と職場の保育園に災害対応出勤しました。

 

私は一旦2階に戻り、息子達がいる1階に行こうと階段を降りている、その時でした。

ドドド!!ドン!!横揺れ、縦揺れが合わさった様な強い揺れ、突き上げ。

私は階段から落ちるように、目の前のドアが開いている玄関から外に出ていました。

 

「もう止まる。こんな揺れが続くわけがない・・・」と思った瞬間。

止んだ気がしました。ただ、それは気がしただけで、地獄の時間はそこからでした。

揺れはおさまった、そう感じ、家の中にいる息子2人のもとに走ろうとした瞬間、

ガガガッ!と再度大きく揺れ、横に大の大人が飛ばされました。

立っていられません。前に進もうとしても、横に倒され膝から落ち、確実に左右の膝から血が出ているのが分かりました。

経験なんてしたことがあるはずがない、強く、大きな破壊的な揺れに立つことも、前に進むこともできず、もしかして自分だけが立てない、前に進めていないのか?だとしたら、恥ずかしい、恰好悪い、情けない。短時間の間にそんな感情も生まれていましたが、そうではないことに気づきます。

それは視界に見える家屋が、音を立てて次々と倒れていったからです。

まず自宅の向かって左にある、この建物がバキバキ!と音を立てて倒壊しました。

信じられない光景に、大きな声を出していた気がしますが覚えていません。今度は自宅の右にある家も、音を立てて、くの字のように自宅に傾き始めました。

 

倒壊したことで見えるようになった丘の上にある家々も倒壊しているのが見えました。もう恐怖はピークでした。

人生最大の恐怖

それは、自分の命の危険ではなく、最も大切なものが、目の前で失われるかもしれないという恐怖です。自分が死ぬかもしれないという怖れの、おそらく何倍も大きな恐怖・・。

自宅を挟む2軒が倒壊し始め、頭の中は自宅が今にも崩れて1階が押しつぶされるイメージで支配されていました。

 

1階のこたつの中で、小6の長男と2才の次男がいます。今にも倒壊し、2人が下敷きになってしまうのではないかという恐怖。

「あいとーー!!」と長男の名前を叫びながら玄関の方向に走ろうとしますが、進めません。「お願いします」「あいと」「あさひ」おそらく、私が叫んでいたのはこの3つの言葉だけだったと思います。

 

こんなに狼狽えたことはありません。こんなに無力さを感じたこともありません。

こんなに自分は弱虫だと、そう実感したこともない、そんな時間でした。

 

おさまった、止まった。と感じた瞬間に、家に向かって走り出しました。

全てのものが散乱し、倒れ、飛ばされている部屋の様子が目に飛び込み、長男の名前を叫ぶと、こたつの中から顔を出しました、まず安堵。次男はこたつの中にいました。

長男が中に引き入れて守ってくれました。そして、まさかの熟睡していました。

 

「行くぞ!」そう声をかけて、次男を抱っこし3人で玄関から家の前の道路に出ました。

とにかく良かった・・・。息子2人の顔を見て、もうその思いだけでした。